バーナム効果と対峙する(都政新報 2024.6.18)

この春、僕は58歳で区役所を早期退職し、論文セミナーと文章研修を行う会社を設立した。

在職中の思い出といえば、この紙面からあふれ出るほどあるのだが、一つだけご紹介させていただきたいと思う。

管理職として最初に赴任したのは、区画整理課だった。
愛着のある土地や建物の移転が伴うため、地権者の意思が賛成・反対に分かれやすく、合意形成が極めて難しいのが土地区画整理事業である。

家屋の移転には同意しているものの、希望通りの移転先にならず不満を抱いている地権者もおり、区画整理課長として着任した4月1日、僕はその洗礼を受けることになった。

区画整理事務所の玄関先に、朝からにぎやかな声が響いていた。

「課長が変わったらしいな! 新しい課長を出せ!」

ベテラン係長が必死でなだめているが、訪ねてきた地権者は興奮状態。その言い分はこうだ。

「元と違う土地をよこせ!」

退職金で夢のマイホームを建てたのは数年前。やっと手に入れた終の住処を奪われたあげく、反りの合わない人の隣に移転しなければならないなんて我慢できない――彼は声を荒らげて、そう主張していた。

区画整理にも種類がある。地権者で構成される組合が事業を行う方式と、行政が施行者となる方式。この地区では後者を採用していた。当然、地権者の感情のはけ口は行政となるため、担当職員の苦労は相当なものだった。

結局、着任初日は面談室に4時間以上も缶詰状態。彼の主張にひたすら耳を傾けることとなった。

翌日、今度は別の地権者が事務所を訪ねてきた。

「区画整理には反対だ!」

彼の主張も極めて明確で、決してぶれることはなかった。
しかし、思いがけない言葉が彼の口から飛び出した。

「有名な占い師がいて、その人から『移転に応じると不吉なことが起こる』と忠告された」

彼にとってその占い師は神様のような存在だったらしく、愛車のナンバープレートの数字まで決めてもらっていたという。その崇拝ぶりはすさまじく、行政の入り込む余地などないようにも思えた。

だが僕は、「その占い師に会わせてくれ」と彼に強く迫った。

「バーナム効果」という心理学用語がある。
占い師が一般的な特徴や、誰にでも当てはまりそうな曖昧な説明をしているにもかかわらず、自分のことを言い当てられたと勘違いして「それ私!」「すごい当たってる!」と思ってしまうような人間心理のことだ。

相手との心理的な距離が縮まり、心を許し、普段は人に話さないような出来事や悩み事まで打ち明けてしまうこともあるらしい。信頼感の高い人や権威がある人からのバーナム効果は、より顕著になるとされており、この占い師も信者は多かったのだとか。

しかしこのまま移転を拒み続けると、法令の効力が発生する日から彼の土地の所有権は区に移り、住み続けるには土地の使用料が発生することになる。

「占いに運命を委ねるのではなく、自らの意思に忠実になるべきだ」と説得を試みる僕だったが、取り付く島もない。

結局、彼の崇拝する占い師に、新米課長の僕なんかが会うことはできず、移転は断固拒否された。

自分に不都合な情報は受け流し、都合の良い情報だけを受け取ってしまう――。
彼はそこから抜け出すことができず、崇拝する占い師に翻弄されていた。

今、振り返れば、新米課長だった僕に「バーナム効果」について考える良い機会を与えてくれたのが彼だったのかもしれない。

人間は、自分のことを理解してくれる相手に対して警戒心がなくなり、その人に共感したり、妄信したりしやすくなる傾向にある。

区画整理だけでなく、その後に経験した再開発の現場でも、地権者でないのに反対派のリーダーがいたりして、バーナム効果との闘いには随分と苦労した。

しかし、最終的には「1対1」――。
個を尊重し、胸襟を開いてひざ詰めの議論ができるかどうか。

幼少期を過ごした愛着のある家。今は亡き家族のこだわりが詰まった家。財産に対する思いは人それぞれだ。

まちづくりの効果や目的を真摯に語り、地権者に期待感と安心感を抱いてもらうための努力を怠ると、合意形成は進まない。

行政職員が「公共の福祉」を唱えるのは簡単だ。そして、法令に基づいて淡々と処理することもできる。

しかし、新米課長の僕が学んだように、個を尊重するという行政職員としての矜持を忘れてはならないのかもしれない。

当時を回想してみると、現場で学んだ最も大切なことは、そのことだったように思う。

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