書き出しの妙味(都政新報2024.6.21)

 論文試験は「書き出し3行」が大事。

昇任試験の受験者によく僕が言っている言葉だ。

書き出しの一文が思いつかないせいで、まったく筆が進まないという受験者は、実は少なくない。

区役所在職中の僕は、この時期になると決まって論文の“添削マシン”と化した。

多い時は30本以上の論文を抱え、週末は書斎にこもるのがライフワークともなっていたが、無事に昇任を果たした彼らが職場で活躍している姿を見るのは、誠に嬉しいものだった。

 「論文に個性はいらない」と指導する上司もいるらしいが、僕は「論文にも個性はあってよい」と考えている。

どこかで見たような使い古されたフレーズや、どこからか借りてきたような陳腐な文言で書き始めるのは御法度だ。

30本から、多い時には100本の論文を採点しなければならない採点官の立場にもなってほしい。

拙著『合格論文の極意』(学陽書房)には、「書き出し3行でライバルに差をつける」という項を設けた。

ベテランの採点官は、書き出し部分の3行を読んだだけで、受験者の力量を推し量ることができる。

たとえば「効率的な行政運営」が出題テーマだったとする。

試験当日、多くの受験者は以下のような書き出しで答案を提出する。

「少子高齢化の進展や気候変動の影響などにより行政需要が増大している中、生産年齢人口の減少に伴い税収が減っており、本区の財政状況は厳しさを増している。」

このような紋切り型の論文を100本も読まされたとしたら、採点官はどのような気持ちになるだろうか。容易に想像できるはずだ。

一方で、一発合格できる骨のある論文は、書き出しも秀逸だ。

職場のエピソードを惜しみなく披露したり、社会的に注目されている旬の数値データを引用しながら、出題テーマの背景を深掘りし、鋭い感性で理想と現実のギャップを突いてくるから、採点官の心にも響く。

たとえば、過去の合格者は次のように書いた。

「92.9%という数字がある。これは本区の経常収支比率である。」

単刀直入で、極めて唐突な書き出しではあるが、出題テーマの背景にズバリと切り込んだ実に軽やかな1行ではないか。

書き出し3行の大切さは、名作に学びたい。

「小説は書き出しが命」と言われているが、僕もそう信じているひとりだ。

書き出しで心をつかまれたら、ページをめくる手は止まらなくなるのが常だ。

秀逸な書き出しといえば、真っ先に思い浮かぶのは夏目漱石だろう。

「吾輩は猫である。名前はまだ無い。」

この軽やかな一文だけで、好奇心をくすぐられる。

川端康成もそうだ。

「国境の長いトンネルを抜けると雪国であった。」

飾り気のない一文が、あっという間に読み手を車窓の人へといざなう。

僕が最も好きな書き出しは、梶井基次郎の『桜の樹の下には』だ。

「桜の樹の下には屍体が埋まっている!」

という衝撃的な一文を、梶井は冒頭に持ってきた。

この作品は、たった4ページの短編小説だが、梶井の思想がギュッと凝縮された名作だと言ってもよいだろう。

さて、梶井の本を書棚から引っ張り出してみよう。

鮮やかな黄色い表紙が、殺風景な部屋を魔法のようにパッと彩る。

隣家の屋根を叩く雨音にそっと耳を傾けながら、エアコンの風を感じて読む『檸檬』もまた格別だ。

得体の知れない不吉な塊に心を押さえつけられていた主人公──肺病を患っていたこともあり、常に熱っぽく、果物屋で買い求めたレモンの冷たさに癒やされていく。

しかし、心のよりどころとなっていたはずの馴染みの書店は、いつしか気詰まりな重苦しい場所になってしまう。

その葛藤は、レモンを「爆弾」に見立てることで鮮やかに表現され、自らの心を圧してやまない“現実”を木っ端みじんにしてしまいたいという歪んだ願望を生む。

これが『檸檬』のあらすじだが、梶井ファンの間で語り継がれているエピソードがある。

作中に登場した書店と果物屋は実在したらしく、そこで買ったレモンを店内に置き去る人が後を絶たなかったというのだ。

この作品が4ページにも満たない短編であるように、梶井は多くの短い作品を世に送り出している。

至極少ない文字数で読み手の心を捉えるのは容易ではないが、梶井がそのお手本を示してくれたのだ。

最後に、昇任試験の論文の話に戻そう。

とっておきのネタを惜しみなく披露して、採点官の心のドアを“トントン”とノックする──それもまた、昇任試験を受験する者の醍醐味だと言ってもよいだろう。

AI全盛時代とはいえ、論文試験の採点官は「人間」だ。

金太郎飴のような論文から脱却し、その他大勢から一歩抜きん出ることができれば、合格をグッと引き寄せられるはずだ。

「書き出し」の妙味──そんな目で、僕は今日も論文を読んでいる。

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