文は人なり。
連載コラムのタイトルにこの言葉を掲げたのは、2年前のことだ。その理由を、あらためて綴ってみたいと思う。
フランスの博物学者ビュフォンの言葉だが、僕なりの解釈はこうだ。
自らと向き合いながら、一つひとつの言葉を紡いでいくのが文章。言葉を紡ぐ過程で「わたし」というフィルターを通り、自らの思想や価値観が文体をつくり上げていく。
書き手がどんな人間であるか──文体はそれを映す鏡となる。
だから、美辞麗句や秀逸な言い回しを操っても、読み手を欺くことはできない。文章スキルだけでなく、人間性も磨かねばならない。
自分を律するために、僕はこの言葉を胸に刻んでいる。
テレビをつけてみる。知的な人なのに言葉の使い方を間違えたり、平気で「ら抜き言葉」を多用したりしていて、がっかりさせられることはないだろうか?
文章もそうだ。ちょっとしたミスを犯しただけでも、品格を疑われることになりかねない。
僕もまた然りだが、思い込みや勘違いをしたまま使っている表現は、案外多いものだ。
昇任試験論文の添削指導でも、間違った表現を指摘することはとても多い。
先日、「人材育成」をテーマに書かれた論文が僕の手元にやってきた。
──論文なのに「やってきた」と擬人法を用いたのには、ワケがある。
受験者本人が論文を持ってくるわけではなく、その家族や上司が僕の知り合いだというご縁で、添削を頼まれるケースが数多くあるからだ。
今回は政令市の係長試験だったが、「ミスはその場で戒める」という解決策が書かれていた。
それを説明する文章を読んで、僕は眉をひそめた。
「情けは人のためにあらずとも言う。ミスを大目に見るのは本人のためにもならないのだ」と断じている。
実はこの言葉、「情けは人のためならず」というのが正しい表現であり、「人に情けをかけると、巡り巡って結局は自分のためになる」という意味だ。
しかし、彼女は「人に情けをかけると、結局はその人のためにならない」という意味で使っていたのだ。
解釈が難しい言葉かもしれないが、昇任試験論文での誤用は、減点されるおそれがある。
一方で、「気が置ける人になるように努める」という解決策で、メンターとメンティーとの関係づくりについて書いた受験者もいる。
これは、「気が置けない」と「気が置ける」を全く逆の意味で解釈しているケースだ。
4冊の座右の辞書が僕の書斎にあるが、そのうちの1冊を引いてみよう。
「気が置けない」は、気を使わずに気楽につきあえること。「気が置ける」は、相手とのあいだに自然と心づかいが置かれる、つまり何かと配慮がいるという意味なのだ。
この受験者は「ささいな相談でもしやすいように、気が置けない人になる」ということを主張したかったのだろう。使い慣れない言葉で墓穴を掘らないようにしたいものだ。
「機運」と「気運」、「くらい」と「ぐらい」も、使い分けに迷う人が多い。
「機運」は、だんだんとそうなっていく頃合い、時の巡り。「気運」は、自然にそうなっていきそうな様子、世のなりゆき。ニュアンスの違いはあれども、意味に大差はないので、昇任試験論文では「機運」を用いるように指導している。
表記ゆれを起こして、1本の論文で両方を用いているケースもあるが、これは採点官泣かせになるかもしれない。
「くらい」と「ぐらい」も、厳格に使い分ける必要はないが、程度の軽重を表現するために「こそあど」に付ける場合は「くらい」を用いるようにし、それ以外ではどちらを使っても構わないだろう。
最近、若い人と話していて、辞書を1冊も持っていない受験者がいるのには驚いた。
手書きで文章を書く機会は、たしかに減った。いや、昇任試験論文のほかに手書きで書くことは、もうないのかもしれない。
パソコンの変換キーを押せばいくつかの候補が表示され、正しそうなものを選べばよいし、スマホの辞書機能も充実しているから困らないらしいが、本当にそうだろうか?
論文の採点を務めてみると、誤字・誤用のオンパレードに遭遇することになる。
「壁の穴は壁で塞げ」ということわざにあるように、何事も間に合わせではうまくいかない。
だからこそ、言葉の使い方に迷ったら、しっかりと調べるか、詳しい人に聞くようにしたいものである。
減点で済む論文とは違って、ビジネスで発信する対外的な文書は、「個人のミス」が「組織の恥」に発展してしまうから、細心の注意が必要である。
結局、最後の砦では「自分」なのだ。