そば屋に殴り込みをかけたパスタ屋──僕はAIをそう揶揄している。
誤解のないように申し添えておきたいが、そもそも僕はそばもパスタも大好きで、どちらのお店もよく利用する。だから、「パスタ屋に殴り込みをかけたそば屋」でも良かったのだが、今回は分かりやすいほうにさせてもらいたい。
日本そばの名店が立ち並んでいる地域に、人気のあるパスタ屋さんが参入してきたら──AIの台頭をそのように捉えることで、僕はAIを理解しようと努めている。
日本そば固有の伝統メニューにこだわり続けるのが良いのか。味のバリエーションがあって若者受けのするパスタの特徴を模倣した新メニューを設けるべきなのか。
AIがますます普及すると、人間は仕事を奪われるらしいのだが、世の中を見渡してみると、すでにAIが人間を超えた事例も少なくない。対面での対応が必要なケースに職員が専念できるからといって、AIの台頭を手放しで喜ぶのもいいが、AIはあくまでも人間の「サポーター」であり、「秘書」なのだと僕は思っている。
秘書に会社を奪われる社長──そんなドラマのように野暮な事態を招かないとも言えない。
AIは人格を持っておらず、あくまでも「道具」だ。常識を備えておらず、臨機応変に判断することができない。だからこそ、AIの台頭によって、ますます人間力が問われる時代が到来したと言っても、過言ではないだろう。
シンギュラリティという言葉があるように、僕たち人間の想像よりも、はるかにAIは賢い。
たとえば、日本の医師国家試験を解かせてみたところ、合格ラインを超えたというのだから、最新版の人工知能の賢さは疑う余地もない。
しかし、AIは人間の立場や境遇を参酌したり、深く思案をめぐらすことまではできない。だから、住民の気持ちに心を寄せるべき行政職員がAIを妄信するのは危険なのだ。
そうは言っても、詐欺電話を検知して被害を未然に防ぐ取り組みなどが奏功している事例もあり、AIの恩恵は計り知れない。
人間に成り代わってAIが本領を発揮できる分野があるのであれば、どんどん使うべきであろう。
そういった意味で、芥川賞を受賞した九段理江さんが受賞会見でこぼした言葉は興味深かった。
「作品全体の5%ぐらいはAIの文章を使った」と。
受賞作は『東京都同情塔』。生成AIが普及・浸透し、成熟した近未来を舞台に、物語は織り成されていく。
主人公の女性が「君は自分が文盲であると知っている?」とAIに尋ね、「いいえ、私はテキストベースの情報処理を行うAIモデルですので、文盲ではありません」とAIが反論する──その場面でChatGPTによる文章をそのまま用いたそうだ。
九段さんは、3カ月あまりでこの作品を書き上げたというが、その根幹を支えているAIの思考や言い回しを探るために、ChatGPTを大いに活用したらしい。
「AIに取材する感覚」──九段さんの独特の表現が的を射ていて、思わず膝を打ちたくなった。
「他の人に内緒にしたいことでも気軽に聞ける存在」──そう言って彼女はAIを評した。
しかし、こう言って社会に課題を投じることも忘れなかった。
「頼りすぎると、自分の気持ちが分からなくなる」
終始穏やかな表情で語ってはいたが、その指摘は誠に鋭く、エッジが効いていた。
そして、「怠慢のために使うとAIは脅威になる」とも語る。
映像や音声を合成した精巧な偽動画をもAIは生み出す。「ディープフェイク」という巧みな技術を使って作成された偽動画では、ウクライナのゼレンスキー大統領が自国の兵士や市民に投降を呼びかけたという。
AIの負の側面からも目を背けることはできないだろう。
彼ら(AI)は膨大なインターネット上のデータをもとに、共通の特徴やキーワードとの関連性などを探り出し、現代社会における最大公約数的な単語を、あくまでも機械的につなぎ合わせて文章を完成させる。
人間の心情に心を寄せて、自らが言葉を紡いでいるわけではない。
だから、住民の心をつかみ、行動変容を促すためには、僕らが大きく手を加える必要がある。
いくらAIが進化を遂げたとしても、行政職員の「人間力」が必須なのだ。
人間がAIを使いこなすのか。それとも、AIに依存して考える能力を退化させた人間がAIに操られるのか。
日本そばの名店が、若者に人気のパスタ屋さんと折り合いをつけて付き合っていくことができるか──各自治体の手腕が試されるかもしれない。
先日、ふらっと立ち寄ったそば屋さん。おすすめメニューにあったのは、なんと「カルボナーラ風日本そば」だった。